第41回四日市公害犠牲者合同慰霊祭が9月9日、四日市市北大谷斎場の慰霊碑前で開かれる。公害の歴史を未来の環境都市づくりへつなげようとする四日市市にとっては大切な日だが、2020年からのコロナ禍で参加を呼びかけるのも難しい時期があり、参加者の足が遠のく面もあったという。主催者は今年、多くの参列を待っている。【四日市公害犠牲者の慰霊碑には8月も花が供えられていた=四日市市松本】
慰霊祭は、2014年から「四日市公害患者と家族の会」(谷田輝子代表)と四日市市の共催で開いている。同家族の会は8月下旬、これまでの出席者など約60人に向け、慰霊祭への参加を呼びかける案内状を送った。「今回は久しぶりに参加者全員の記念撮影をさせていただきたいと思っていますので、ご都合よろしければご参加ください」など、控えめながら関係者の再会を待ちわびる気持ちが伝わる文章になっている。
同家族の会の事務局を務める伊藤三男さんによると、コロナ禍前は、四日市公害に関心をもつ一般の市民などの参列も見られた。しかし、コロナの感染拡大で慰霊祭の内容を縮小せざるを得ず、市長、市議ら公務関係者の出席者に比べて家族ら関係者の参列が少ないなど、寂しい思いもあったという。
9月9日の慰霊祭は、午前10時から1時間ほど、四日市市松本の北大谷斎場内の西方奥にある慰霊碑前に参列者が集まり、慰霊の言葉などを捧げる。この1年間の死没者を加えて犠牲者の名簿をあらたにし、花束のお供えなどをする予定だ。今年は、7月末時点で1年間の死者は8人。このうち2人を除く6人をあらたに死没者名簿に加え、合祀者は1112人になる予定という。
1959(昭和34)年に第一コンビナート(塩浜)が本格的な操業を開始し、2年後の夏ごろから四日市ぜんそくの集団発生が始まったとされる。1972(昭和47)年、四日市公害訴訟で住民側が勝訴し、1976(昭和51)年、公害犠牲者の遺族会が結成され、翌1977(昭和52)年、公害患者、家族、遺族の出し合った浄財などで慰霊碑を建立、第一回慰霊祭を開催した。
2003(平成15)年に認定患者の会と遺族会が合併して「四日市公害患者と家族の会」を結成。その後、2011年、当時の田中俊行市長が市長としては30数年ぶりに参列し、市と共催の形での慰霊祭に向けて動くことになったという。
四日市市によると、四日市ぜんそくの認定患者は今年7月末現在、30歳代~90歳代の計286人。1988年の「公害健康被害の補償等に関する法律」の施行により、新規の患者の認定はされなくなった。
(2023年9月2日号にも掲載しています)