塩浜地区内を南北に貫通する塩浜街道は、江戸時代中頃までは海岸線でした。塩浜の名は古くから製塩が行われていたことにちなみます。明治3(1870)年には、塩浜・馳出・辰巳新田・大橋新田の4つの村がありました。辰巳新田は天明4(1784)年白木金太夫が、大橋新田は文化11(1814)年大橋六兵衛が私財を投じて干拓しました。明治8年に大橋新田村と辰巳新田村が合併して旭村となり、明治22年に塩浜・馳出・村の3つが合併して三重郡塩浜村となりました。
町名の由来は、磯津の磯は岩礁のある海岸で、津は港、湊、集散地の意味。大井の川は、大井は大きい井関の意味で鹿化川と天白川の合地点。大池は大きい池があった開墾地。川合は鈴鹿川と内部川の合流している地域。中里は、里の中心地だったことを表します。七つ屋は、鈴鹿川の氾濫で上流から7軒の家が流され、移り住んだことにちなみます。馳出は海浜埋立地の俗称で、埋立地が無償で手に入ると聞いた人々が駆け出して来たと言われています。御薗は御薗神社から。神宮への野菜などの献納地でした。宮東は、海山道神社の東の意味。海山道は海山道神社にちなみます。小浜、高旭、宝、浜旭、柳は、響きの美しさから付けられました。
協力:四日市観光ボランティアガイド 監修:四日市市立博物館
※2022年7月2日(209号)発行 紙面から