トンネルで命拾い
太平洋戦争末期、菰野町出身の女性が、亀山駅を出た列車に乗車中、米軍機による銃撃を受けた。列車はトンネルに逃げ、難を逃れた。95歳になった女性を今年7月、亀山列車銃撃事件などの戦争遺跡を調べてきた男性が訪ねて聞き取り、未知の「第3の銃撃」である可能性がでてきた。戦後78年目にして戦争の事実を物語るあらたな記憶が加わった。【増田さん(右)から話を聞く岩脇さん=菰野町潤田】
女性は、菰野町に住む元教諭の増田信子さん。昨年、銃撃の記憶を手書きのメモにし、知人の郷土史研究家に見せた。これがきっかけで、この夏、亀山の列車銃撃事件を調べている「戦争遺跡に平和を学ぶ亀山の会」のメンバー、岩脇彰さん(62)が増田さんを訪ねた。
現在の亀山市本町にあった三重県女子師範学校の生徒だった増田さん。御在所岳の頂上から四日市方面に飛ぶ米軍の戦闘機を見上げ不安を抱いていた。父から四日市空襲で逃げる人の話も聞いていた。そんな1945年の夏のことと思われる。軍服を保管するための穴を掘る作業中に、ふざけて高いところを跳び下り、足をねん挫した。先生に背負われ津の旧制三重県立医学専門学校の病院(現・三重大学医学部附属病院)に向かった。
恐怖で先生にしがみついた
駅を出て、警戒警報のサイレンが鳴り、列車はトンネルに入って停車。当時、いざという場合はトンネルに退避する指示があったとされる。真っ暗な中で増田さんは戦闘機の攻撃を受ける爆音を聞き、恐怖で先生にしがみついた。被害を免れたが、「ふざけてけがをし、先生まで危険な目に遭わせた自分が助けられた。その命を大切にしよう」と心を入れ替えたという。
【「被害は軽微」と伝えた当時の新聞(亀山市歴史博物館所蔵)】
亀山では40数人が犠牲になったとされる1945年8月2日の銃撃事件。米軍の資料では銃撃はこの1件だが、岩脇さんは、数々の証言を聞き、7月にも銃撃事件があったことを突き止めている。だが、いずれもトンネルの外で攻撃されており、トンネルに逃げることができた銃撃事件は初めて聞く話だという。「戦争から時間が経ち、証言ができる人が亡くなっていく中、亀山での列車銃撃は少なくとも3度はあったと考えられる貴重な証言が得られた。今後も調査を続けていく」と語った。
【事件の銃弾の薬きょう(亀山市歴史博物館所蔵)】