19歳でカンボジアに移住し、20歳で起業した三重県四日市市出身の木下澪那さん(24)。アジアを旅し、貧困や格差の問題に直面するなか、世界一おいしい高級コショウと言われる「カンポット・ペッパー」の魅力を広めるビジネスへと行き着いた。現在は、コショウの販売を通じて現地のカンボジア人の雇用を生み出している。
看護師を目指していた高校3年の冬、アルバイト仲間のベトナム人女性が実家に帰省することになった。バックパッカーに憧れていた木下さんは、この機会に初めて海外を経験することにした。
ベトナム最大の都市・ホーチミンを訪れ、高層ビル群とスラム街が一本の川を隔てて同居する現実に衝撃を受けた。ベトナム戦争後、世代を超えて残る枯れ葉剤被害の爪痕も目の当たりにした。帰途につく木下さんに「海外のことをもっと知りたい」との思いが芽生えた。
大学への進学を取りやめ、インドで貧困層の住民のために家を建てるボランティアに参加。高校卒業後はJICA(国際協力機構)の名古屋支部で勤務し、日本を訪れるさまざまな外国人と関わりながら、語学への自信をつけた。
19歳の冬、再びベトナムを訪れた木下さんは、少し足を延ばして陸路でカンボジアに向かった。バスを降り立った時、他の国と違う空気を感じ、どこか懐かしい気持ちになった。「私、この国に住む」。
アンコールワットの都市へ
移住は4か月後に実現し、世界遺産のアンコールワットがある観光都市・シェムリアップで日本語教師として働いた。約1年が経ったころ、国内旅行中に南部沿岸のカンポット州を訪問。コショウ畑に立ち寄ると、作業をしていた人が「食べてみなさい」と木から青い生の実をちぎって手渡してくれた。
口に入れた瞬間、プチっとした弾ける食感ともに、とてつもない風味が口いっぱいに広がった。これまで経験したことの無いおいしさだった。
カンポット・ペッパーは、同州特産の有機栽培のコショウで、フランス植民地下の19世紀後半から栽培が始まり、20世紀初頭は年間8千トンが生産されていた。ところが、1970年代から約20年続いた内戦やポル・ポト政権による自国民の大量虐殺などの影響で、コショウの栽培環境は荒廃。内戦後は一部復興が進んだが、近年も年間約50トンの生産量にとどまっているという。
魅力を伝える「胡椒ソムリエ」に
帰宅後、コショウのことが木下さんの頭から離れなかった。世界中から観光客が訪れるシェムリアップでは、カンポット・ペッパーと名の付いた商品は市場などで雑多に売られていたものの、品質が保証された商品を購入できる専門店がなかった。
木下さんは日本語教師の仕事の傍ら、自宅一室でカンポット・ペッパー専門店「RAYS SHOP」を開いた。続けるうちに観光客を中心に買いに訪れるようになったため、店の仕事に専念。従業員を雇用し、店舗面積も拡げ、コショウ料理やスイーツを提供するカフェも開いた。
事業は順調に見えたが、3年目にコロナ禍で街から観光客の姿が消えた。「スタッフの生活を守らなきゃ」。販路を拡大するため、ネット通販を本格化させた。
今年1月からは一時帰国し、実家のある四日市市と東京を往復。日本での認知度向上を目指し、イベントに参加したり、クラウドファンディングを実施したりと、「胡椒ソムリエREINA」として魅力を伝える活動を展開している。
木下さんは「おいしいコショウを作るには、働く人が幸せでないといけない」と力を込める。現在、店で販売するコショウの生産を担う契約農園のスタッフは25人、販売店の従業員は4人。安定した給与の支払いはもちろん、食事や光熱費の支援を行うなど手厚い体制をつくっている。20歳のある女性店員は、困難だった大学進学の夢を、木下さんの元でかなえた。
木下さんは7月末に日本を出発し、再びカンボジアに戻った。四日市を離れる前、「高校の時に初めて外国を知り、色んな人に助けられ、私の世界が広がった。今度は私が1家族でも多く、生活に苦しむ人を支えたい。そしていつか、スタッフたちにカンボジア以外の国の姿をみせてあげたい」と思いを語った。
※2022年9月3日(211号)発行 紙面から