1945年6月18日の「四日市空襲」で、焼夷弾が降る街中を逃げた記憶や戦中戦後の暮らしを、同市出身で、現在は神奈川県相模原市に住む南川隆雄さん(85)は詩や文に書き留めた。
当時8歳だった南川さん。父は召集され中町(現・中部地区)で母と祖母と弟と暮らしていた。6月18日午前12時45分空襲が始まった。母に起こされ4人で、炎で赤く染まる道を駆け、三滝川を目指した。
堤防まで来ると焼夷弾の降る中、逃げ惑う人に向け低空を飛ぶ戦闘機による機銃掃射が始まった。目の前を歩く人の背中には、焼けただれた皮膚がまとわりついていた。恐怖で南川さんも弟も家を出てからひと言も発することができなかった。この時の記憶は鮮明で、8月15日に玉音放送を聞いたことより鮮明に脳裏に焼き付いているそうだ。
自宅を焼失した一家は祖母の知り合いの郊外の農家に間借りした。そこから焼け残ったものを探し、配給をもらうために母と焼け跡に通った。幼馴染みの一家が防空壕で、遺体で見つかった。「もう動かない友の目に周りのものがくっきりと映っていた」という。火葬される一家から登る紫色の煙、この光景を「つゆの晴れ間に」という詩に残した。
「そうかきみはランドセルをもちだせなかったんだ だったらうしろの壕にあるのを使っていいよ 教科書が煙臭くなっているけれど」 詩集「みぎわの留別」 思潮社 掲載
南川さんは戦中戦後の生活を記録として残していた。それを基に10代から詩や短文を創作し詩集などを出版してきた。80代になり、戦争を知らない世代に向け、自身の体験を残していく責務を感じた。2019年にそれまでに書いた詩や文をまとめ「爆音と泥濘 詩と文にのこす戦災と敗戦」にまとめ七月堂から出版。翌年には続編も出した。
ロシアの軍事侵攻に怒り
終戦から77年を迎える今年、戦後に築かれた国際秩序を根底から覆すロシアによるウクライナへの軍事侵攻が起こった。南川さんは、兵士だけでなく、女性や子どもの命までも軽視される同じ過ちが繰り返されることに怒りを覚える。「まずは戦いを止めてその収束を、根気強い話し合いに委ねてほしい」と語った。
※2022年8月6日発行 紙面から