残りの人生は戦争に反対するために使いたいー―。四日市市中町の河村紀子さん(92)は、先月、四日市友の会(野﨑佳代子会長、同市智積町)主催の「平和を考える会」で、四日市空襲の体験を語り、子どもたちに平和を守る願いを伝えた。【子どもたちに戦争体験を語る河村さん=同市智積町で】
河村さんは戦時中、体育の授業で土を固めて手榴弾しゅりゅうだん)に見立てたものを投げる練習や、戦争に参加できる体力をつけるため、俵に土を詰めたものを運ぶ訓練をした。先生からは医師や従軍看護婦になるように言われ、自分の意志で進路を選べなかった。
四日市高等女学校(現県立四日市高校) の学生で、軍需工場に学徒動員されていた1945年6月18日未明、B-29戦略爆撃機が焼夷弾(しょういだん)1万1千発を投下。燃え盛る炎の中、人の放り出した布団を水槽で濡らし頭にかぶり母と逃げた。三滝川に辿り着いたが橋は猛火の中で、母を堤防から暗闇の川に突き落とし、河村さんも飛び込み「ここで死ぬんだ」と感じた。夜が明けるとあたりは焼け野原で、眼球が飛び出し、顔が膨れ上がった遺体を見た。その光景は今でも夢に見る。
空襲は続き、自宅の庭に不発弾が落ちたことも。親の借金で身売りされ芸者になっていた小学校の同級生が諏訪公園(同市諏訪栄町)近くの防空壕で息を引き取るのを目の当たりにし、「自分も死にたい」と思ったという。
戦後は中学の教員になり、生徒に戦争体験を語り、退職後も語り部として多くの学校を訪れた。「今は自分の意志で進む道を決められる。人生を切り拓き、皆で、平和を守ってほしい」と語った。河村さんの自宅近くに住む下平華穂さん(中部中1年)は「その時代に生まれていたら、自分も空襲に遭っていた。戦争はしてはいけないと強く感じた」と話した。
(2021年8月14日発行 YOUよっかいち第198号掲載)