東日本大震災の発生から10年。当時、放射能汚染から我が子を守るため四日市に避難した母子に、同市海山道町の建設業トーアエンジニアリングが社宅を住む場所として無償提供した。節目の年を迎え、当時の様子や現在の思いを聞いた。【社宅で当時を振り返る山本さん(右)と山根さん=四日市市曙で】
同社代表取締役で当時専務の山本直史さん(37)は、2011年5月に被災地で炊き出しのボランティアに参加。その活動を知った四日市で母子避難を希望する人を支援する団体から、社宅提供の依頼を受けた。
自宅の損壊などの被害がない人が放射能汚染の不安を理由に避難する場合は罹災証明が取れず、避難に掛かる費用は自己負担になる。夫は被災地に残り母子だけで避難する場合もあり、不安になる人が多かった。山本さんは被災者の心情をおもんぱかり、当時の代表取締役だった父に相談し、無償で社宅を提供。社員と食事会などを企画し、交流の場も設けた。半年間ほどで22組の母子に心身共に休める場所を提供したという。
管理人の山根雅幸さん(58)は母子避難者との接し方に迷うこともあったが、暖房器具や食器など「足りないものは使って」とこまめに声を掛けた。「暗い顔をしていた親子が笑顔を取り戻していくのが見られてよかった」と振り返る。
福島県で被災し、当時3歳の長女と避難した女性(49)は、20日間ほど社宅に滞在。母子避難者仲間と当事者しか分からない気持ちを分かち合った。人の温かさなど四日市の良さを感じた女性は現在、市内の公営住宅に移り、母子で暮らしている。
茨城県から避難した中村佳世子さん(46)は1カ月ほど社宅で暮らした。当時は疲れ果て人と話すのも嫌で引きこもりがちだったが、山根さんや母子避難者に出会い、心がほぐれた。「心底困った時に見返りを期待せず支えてくれる人がいて本当に嬉しかった」と話す。今は夫が転職、山口県で家族そろって暮らす。山本さんは「今後災害が起こったら、支援の形は変わっても、辛い思いをしている人の力になりたい」と語った。