2000年9月11日から翌12日にかけて記録的な大雨となった「東海豪雨」から20年。四日市市は死者・負傷者各1人、床上浸水178戸、床下浸水1975戸の被害に見舞われた。当時、四日市市消防本部の特別救助隊(現・高度救助隊)隊長として、床上浸水の被害が集中した新正4丁目付近で指揮を執った坂倉啓史消防長(59)は「まさに想定外の局地的な雨量だった」と当時を振り返る。【東海豪雨時の救助活動ついて話す坂倉消防長=四日市市西新地の市消防本部で】
20年前の9月11日、火災出動から戻った後に「道路が冠水している」との出動要請を受け、坂倉消防長を含む隊員4人が現場へ向かった。現地へ到着した午後3時前、既に道路はそれまでに降った雨の影響で20センチから1メートルほど冠水し、場所によっては腰まで水に浸かりながらの移動を余儀なくされた。
「現場の感覚で判断を迫られた」中で、隊員たちは「このままでは水が増え、自宅を出られなくなる。避難しましょう」と1世帯ずつ呼び掛けて回った。「とにかく危険が迫ることは分かっていた。住民の方に伝えるために必死だった」。情報伝達の装備は2台の無線のみ。あっという間に水が増え、乗ってきた救助工作車の場所も幾度となく移動させた。
浜田小と港中が避難場所となっていたが、避難する住民の安全・安心を考え、まずは近鉄新正駅へ誘導し、そこから市のマイクロバスで移動してもらった。雨脚は弱まってきたが、午後5時ごろには日が傾き、「夜の暗闇が覆う前に、何とかしなくては」と焦りも募る。懸命の救助活動は続き、救命ボート2艇で計9回、50人を同8時ごろまでに救出した。
市内では、北部の富田地区全域に避難勧告が出され、多くの世帯が床上・床下浸水に。中心部の近鉄四日市駅前の商店街にも水が流れ込むなどした。特に午後3時半から1時間の降水量は記録的なものだったという。
一連の活動の様子は、隊員らがA4用紙に手書きで時系列に記録している。その記録や写真を見ながら、坂倉消防長は「現在の装備や技術は格段に進歩しているが、水害の発生状況も変化している。自宅などでも『ここは安全』『自分は大丈夫』と安易に思い込まず、地域の人たち同士で情報を共有するなどし、日ごろから備えることが大切」と語った。