菰野町・猪飼千代子さん
太平洋戦争(1941‐45)の真っただ中に思春期を過ごした、菰野町宿野の猪飼千代子さん(87)=写真。「戦争のせいで女学校時代の写真もなく、スカートのすそに白線の入った、憧れの制服も着られなかった」と振り返る。
川越町出身で、小学校を卒業した43(昭和18)年4月、県立桑名高等女学校に入学。「1年生のうちは日本が勝っていたので普通に勉強ができた」。しかし2年生になると、敵国の言葉として〝英語〟が廃止になり、学校に配属された軍人から竹やりなどを習う「軍事教練」の授業も始まった。「手旗信号は今でもできる」という。
3年生になると戦争はますます激しくなり、学徒動員で東洋ベアリング(桑名市)の軍需工場で旋盤工として働いた。「戦争中は考えられないくらい物がなかった」。金属供出のため、金属製の火鉢から、かんざし、蚊帳を吊る金具まで国に差し出した。隣組からは、もんぺや足袋の型紙が回ってきて自分で縫った。父が下駄を作り、母と鼻緒を付けた。「戦争なんだから当たり前。その雰囲気の中で生きていた」。
45年8月15日、日本の敗戦を知り、「やっぱり神風は吹かなかったのか」という思いがあふれた。しかし、終戦から2年ほど経ち、出征していた11歳上の兄がシベリアから帰ってくるという通知が届いた。
海軍のマント
「家族じゅうで喜び、富田駅か富洲原駅か、二手に分かれて迎えに行った。皆が泣いて兄に抱きついた」。兄は海軍の紺色のマントを持って帰り、後に四日市市役所に勤めることになった際、洋裁学校に通う猪飼さんがそのマントで背広を仕立てたそうだ。
「私たちの世代は、絶対に戦争は反対。でも今は、戦争を知らない世代が世の中を動かしている。これからどうなっていくのか心配」と未来を案じていた。